今出来ることは。。
ミュージシャンのライブ自粛が相次いでいる。
息を詰めての潜水状態を始め、未だ呼吸をするため水面に向かって上昇することが許されない状況だ。人と会わないこと。「3密」を避ける。そのことの有用性はなかなか実感できるものではないかもしれない。だが、ニューヨークの市民からのメッセージに目を引くものがある。「2週間前ニューヨークも今の日本と同じ様子でした。大丈夫だろうという気持ちでレストランで食事をし、街を歩く。。その時の感染者数は200人。そして現在は2万人を越えた。日本の皆さん、どうぞニューヨークのことを参考にしてください。こうならないように街に出ないで下さい。人と会わないでください。」
叫びのようなメッセージの先に今後の東京の姿を想像し、言葉を失った。
だが、その東京のイメージを頭を振って振り払った。まだ、そして今から出来ることもある。そう思って、「今出来ること」について改めて考えはじめた。
そんなときに目にした、一人のミュージシャンの文章を引用します。
ーーー 状況は刻一刻と変わっている。
「音楽の力でコロナを吹き飛ばせ」「音楽で免疫力アップ」という段階はとっくに過ぎてしまった。
そして「こんな中、来てくれたお客様のために」あるいは「オファーのある限り」という段階も。
今、イタリアやスペイン、あるいはニューヨークで起こっていることは決してSFパニック映画の1シーンではない。それは来週の東京であっても全く不思議ではない。
今は我々の社会基盤そのものが持ちこたえるかどうか、という局面に近づいているように思える。
ミュージシャンの基盤は演奏する場所と機会。そしてそれは生活に直結する。
しかしその場所と機会もこの社会的基盤の上に成り立っている。
そして現在、その命運を担っているのは医療の現場。それを守り抜くことが長い目で見て我々を守ることになるのではないだろうか。
この危機的状況がいつまで続くかはわからない。しかし、もしそれを少しでも短くすることが出来る選択肢があるならば。
皆、それぞれの考え方があると思う。
しかし状況は刻一刻と変わっている。
皆、それぞれの考えを持ちながら、状況に応じて柔軟に修正していくのも大事だと思う。
また、皆んなでワイワイ出来る日が一日も早く来るために今、我々に出来ることを。
(SNSの滝川雅弘さんの記事から引用)
海と山の里でのレコーディング
今日は海と山に囲まれた友人宅でのレコーディング。
アトリエのようなその場所は俗世間を離れて音に集中できるのです。
塵一つない、空調の利いた、「快適さ」を売りにしている最近のスタジオは「音楽は金がかかるな。。」という実感を肥大させる。
でも今回のレコーディングは違った。
いつもの自分から音楽が羽を広げて飛び立つ実感をもてる瞬間。
なかなかあるものではないのだが、今回の友人宅でのレコーディングではそれがあったのです。
今まで音楽を続けてきて良かったという思いと、もっと良い音を出したいという強烈な欲求がわき出したのは自分にとっての大きい収穫で、またさらに歩き出したいという気持ちです。
ありがとう!よし美さん、もといさん、あべさん!
この曲も今回、さらに違う味わいになりました。 CDに、乞うご期待!!
「今年もある」ということ
今日は八王子の古本市へ。
みながゆっくりと本を触り、読み、「時間」を味わっている。
何気ない「今年もある」光景なのだろうが、今年は訳が違う。
洪水を免れた「奇跡に近い日々」なのだ。
道行く人の背中に「安堵」と「疲れ」を感じ、「今年もある」ということの有り難さを思った。
ゆっくりと。。
台風一過ですね。何か毎回、「耐性」を試されるかの状況が訪れます。晴天時と荒天時の判断の切り替え方と、その両時の感性、行動力を併せ持つ「達人」には誰もがなれるわけではないですよね。
「ちょっとゆっくりしよう」という感覚で過ごせる日があったらいいな。
どうぞ、御聴き下さい。
記憶の書店
好きな場所に通っていたことが街の記憶になるのだろうな。
自分の東京、町田の記憶を今はなくなった古本屋「高原書店」が担っているのは間違いない。
様々な人が置いて行った「時間」を眺めているような気分で店内を歩いていた感覚を、まだ生々しく覚えている。
「もたないことだな」といった人がいた。
失ったときに大きなショックを受けるような「大切なもの」「大切な場所」「大切な人」を持たないほうがいい、という意味で言った言葉なのだと思う。
だが、そんなことは可能なのだろうか?
ボディーブローのように効いてくる「ズン。。」という喪失感に対処する方法はおそらくないのだろう。
今年の夏の味わいの一つとして、「喪失感」が記憶に刷り込まれた。。