扉あけの日々の雑記

ドラマー梅津光司の日々の雑記です

今日はダコタな日

 6/25(土)は矢部ダコタで「朗読+ライブ+セッション」でした。

朗読コーナーでは、50代半ばの生徒とその先生によるステージ。

つまり、小学校時代の先生と生徒の同窓会です。

 みな、女先生が授業で朗読してくれたことを思い出して、ぐっときていたようです。

 

セッションコーナーでは、ハワイアン、ケルト、沖縄と 音楽三種の神器でした。

みな楽しげで心地よし。

 

 楽しい日を過ごすことができ、大満足でした。

  ダコタはこういう企画が似合うな!  期待してます!

 

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“Danny Boy"

 Voセッションのバックを勤めると、時として「うーん」と感じ入る瞬間がある。

今の自分にとって「事後的にわかる」ということがキーワードなのだが、

自分がさらに老いたとき、果たして自分の醸す「味」に自覚的になるのだろうか。

結局最後はそれについて事後的に解ることなくこの世から消えていくのだろう。

 

 今日”Danny boy”を歌われた方は齢75超えと見受けられたが、その声のかすれ具合とトーン、そして立ち姿に過ごして来られた時間がにじみ出ているように感じられた。

 なぜ英語の歌を歌おうと思ったのかは解らないが、「なにかきっかけがあったのだろうな」などと思いながら、歌い終えたその方に譜面を返した。

 

 私は耳の遠い父の前に現れるとき、急に近くに行かないようにしている。遠目から存在を認知してくれるような導線で近づき、驚ろかせないように話し出すことを心がけている。

 父の姿を投影したのだろうか。

 その方のバックで演奏するとき、可能な限り「驚ろかせないこと」を心がけていたように思う。

 

 カウンターで聴いていた馴染みの若いギタリストがステージにやってきたときに

「こんなに小さな音でドラムを叩いているのを初めて見ました」と不思議そうな顔で話しかけてきた。

 それを聞いて「老いたことの意味が人に影響を与えることもある」ということが

解った思いがした。この理解のあり方はパーソナルだが普遍的なものなのではないだろうか。

 

 ギタリストの彼もやはり「事後的」に理解するのだろう。

 

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開き方の違い

 狛江add9thのジャムセッションで古西ただあき(Cl)さんとDuoで共演した。

 
話し声のさんざめくなかで始まった演奏は、場をすぐに音楽の空間に引き戻した。
 
 まず出音が違う。
 
 薄墨をつけた筆を半紙に落とすのをイメージさせる。その音を聴き、こちらの感覚が
広がり集中していくのを実感しながらの演奏だった。
 
 こんな風にイメージの扉が自然に開くと、先にある「曲の終わり」がリアリティーを持って
感じられる。終わりが見えているからこそアレンジしたり、紆余曲折の道を通ることができるのだ。
 
 感想を持ち合いながらの演奏は、inTempoで自由にふくらみ、舞いながら終えた。
 
 次の共演までに自分はどう変わっていけるのだろうか。
歩いている自分の姿に話しかける日々がまた始まった。
 

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QuiQue Sinesi & Carlos Aguirre (キケシネシ&カルロスアギーレ)

 キケシネシ&カルロスアギーレの日本でのライブ録音CD『Live in sence of quiet』を聴いている。(2012年 5月 東京 草月ホールでの録音)

 

 コンテンポラリーフォルクローレという耳慣れないジャンルで括られているようだが、ここに収められている演奏ほどジャンル分けの範疇に入らないものはないのではないか。

 懐かしさと潤い、そしてコンサートホールのあの空気感と雰囲気。

聴く者の日常が演奏者によって地鎮され、肯定的な気持ちで家路につける

ことが稀にあるが、このコンサートがまさにこれだったのではないか。

 

 当日の聴衆は毎曲、音が減衰しきって無音になった状態で拍手をしていたという。

静寂が楽音と地続きだということを理解する人々が集う空間。

 

 演奏者の二人も「自分が演奏した中で最も素晴らしいコンサートだった。」と述懐したことからも当日の時間のクオリティーが伺い知れる。

 この空間に身を置けなかったことが返す返すも残念だ。

 

 自分は今年の5月にこのCDを初めて聴き、キケシネシ(g)とカルロスアギーレ(Pf)

を知った。

  今後、彼らが来日したときは必ず聴きに行き、彼らの「sence of quiet」を味わいたいと思っている。

(下記の下は別CD。こちらは外苑前Zimagineのような小さなライブハウスで聴きたいDuo。 これもおすすめです。)

 

 YouTubeと試聴はこちら   

       Quique Sinesi "Danza Sin Fin" guest: Carlos Aguirre - YouTube

       http://blog-shinjuku-latin.diskunion.net/Entry/3735/

            

 

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成長とミラーニューロン。そしてブレークスルー。

 5/13(金)に狛江add9thに古西ただあき(Cl) と 小山太郎(Ds)のDuoを聴きに行ったのだが、このときのインパクトが忘れられない。

 辛島文男(Pf)トリオや自身のバンド、 ビッグバンドなど華々しい経歴を誇る小山太郎氏をこの日、手を伸ばせば触れるほどの近い距離で聴くことができた。
 
 クラリネットとのデュオなので音量のバランスに気を遣うのだろうと思っていたのだが、躊躇やためらいではない「思慮深さ」「自分の感覚を味わう態度」「新しい局面を打開しようとするときの高揚感」をもってドラムを演奏する姿を間近で目撃することができた。
 
 一人のドラマーが感覚をフルに広げて、場を音楽に溢れた空間にする仕事ぶりをここまでじっくりと鑑賞することができたのは、師匠の飯野工(たくみ)に帯動していた時機(25年ほど前)以来だと思う。
 
 かなり前、NHKーFMのセッションで聴いた小山氏はトニーウイリアムスのドラムセットのように「CSヘッド」を貼り、高音域が耳に残る「イスタンブールシンバル」を使っていた。 
 
 それはかなり音の主張の大きいセッティングで、ここになにか「若さ故のこだわり」を感じてしまっていたのが正直なところだった。 それが、この日は店の小口径キットで、FTなどは13インチである。
 
 皮はコーテッドでシンバルはダークな鳴りのジルジャン。 そしてその楽器を使うプレイで見事に成長した姿を見せてくれた。
 
 聴いているときに、まるで自分が叩いているかのように錯覚する瞬間が多くあり、これは見ているうちにできてしまう理由になる「ミラーニューロンの活性化」が起きたためのものだろう。
 
 自分の「空間の中での音の出し方(響きのコントロール)」、「身体運用」などが、この日受けた刺激により全く違うものになり、デフォルトになったことを、そのあとのドラム仕事のときに実感した。 これがブレークスルーなのだろう。
 
 小山氏の狛江add9thでの演奏を聴いたことは「演奏を観て聴くことの大切さを痛感されられる出来事」の一つだった。  
 
 一生の想い出となった。
 
 

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